『おれは独裁者か〜オリンピックと優生思想〜』(後編)

・・・・

というのも僕自身
日々結果を出すことや
プレーの素晴らしさとか
向上とか成功を求めすぎるので

一般的にできると思われることができない選手や
勝負の世界で勝てない選手
いわゆる”弱い選手”や
人の失敗や負けというのを拒絶します。

 

拒絶するだけじゃなくて

『こいつがいなければ勝てるのに。』

『なんでこいつはサッカーやっているんだ。
このチームからいなくなっちゃえばいいのに。』

と排除する方向に考えてしまいます。

だけど
そんな自分自身にゾッとします。

自分の中には
『結果を出す者は価値があって、
結果を出せない者は価値がない』という価値観が確かにあって

そして同時に
『結果を出せない価値がない者を排除したくなる自分』が
存在するのです。

もちろん

その思いは回り回って
自分にも返ってきます。

『結果を出さなきゃ必要とされなくなる』という不安が

いつも深いところで消えずに残っています。
 

もちろん僕は人を殺したりはしないけど
昔の戦争の大量虐殺の引き金になった
優生思想的な価値観がいつも自分の近くにあるのです。

 

それを思うと
本当に子供たちにとって夢や希望になる
スポーツやスポーツ選手のありかたって

 

もちろん勝利を
目指してやるんだけども

ただ上を目指して
勝利を目指して
向上するだけじゃなくって、

できる人だけが集まって
すごい選手だけの寄せ集めチームで
選手を入れ替えて戦うんじゃなくって

できる奴もできない奴もいて
それで成り立つ集団であるかとか
いろんな人の考えや特徴を受け入れることができる
広い心の選手であることは

勝つことと同時に
スポーツや選手に求められること
だと思います。

そういう考えの選手や大人が増えれば
 

”結果を出さなきゃいけないと思って
必要以上に頑張ってしまう子供”や

”それで結果が出なくて
落ちこぼれてしまう子供”も

”一般的にできなきゃいけないと
言われていることが
どうしてもできない子供”や

今は”弱い”と言われている
人や子供も

安心して居られる場所や地域が
優しい世の中が
できるんじゃないかと思います。
 

競争社会に生き
狭い考えに陥りがちな選手だからこそ 
子供が安心して居られる場所の創り手になれるんじゃないか。

 

そんなことを
スポーツイヤーに
考えてみる。

今日も最後まで
観てくれてありがとうございました。

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