『おれは独裁者か?~オリンピックと優生思想~』(前編)

今年はユーロ、コパアメリカ、
オリンピック、W杯最終予選があって
サッカーだけじゃなくて
スポーツの年です。
 

連日素晴らしいプレーや
感動的なシーン。
  

人間の持つ無限の可能性に触れて
かなりドーパミン出まくってます。
 

 

僕もプロスポーツをしているので
スポーツはどんなきれいごとを言っても
やっぱり結果が全てだなと思ってしまいます。
 

 

もちろんそこに至る
過程が大事だし
どういう思いでやるかとか
何を描いて始めるかが非常に重要です。
 

とは言え
そういうものは

 
目に見える結果として
すぐには出てきづらいので
 
外から見ても分かりづらいし
結果で示せなければ意味がないとも言えます。
 

だから
そういう目に見えないことには
関心が持ちづらいです。  
 

 

実際 
スポーツの素晴らしいプレーや
感動的なゴールの瞬間は
観ている人に希望を与えてくれます。

 
将来を担う子供達にも
大きな夢を与えます。

 

子供達の夢や希望になれること
人々に感動や生きる活力を与えられることは
 
 
スポーツ選手にとっての
人生を賭けるに値する
やりがいの一つです。

 
しかも
結果を出す選手は賞賛され
高額の報償金や高待遇を得ることが
できるようになっています。
 

 

だから
自分にとっても

 

また
多くの人にとっても

 

『結果を出すことは素晴らしい』というのは
大事だと思います。

 

だけど同時に僕は思います。

『結果を出すことは素晴らしい』という価値観の背景には必ず

『結果が出せなければ意味がない』という価値観が存在するということです。

 

 そしてそれは

 

『結果を出せる奴は価値があって』
『結果を出せない奴は価値がない』

 

という考え方に結びつきます。

 

ちょっと極端に言うと

 

『結果が出せる奴は生き残れるけど
結果を出せない奴は生きる価値がない』

ということです。

冷静に考えると
これは結構アブない思想です。

さらに極端に
昔、戦争があった時代にまで戻りますが
 

当時、価値ある者とは
働ける男や兵役にいける男や
国のために働ける者でした。

反対に
価値のない者というレッテルを貼られる人たちもいて
 
 
それは
障害を持った人や
なんらかの理由で働くことができない
社会的に弱い人たちでした。

その区別は
やがて差別になって
 

最終的には
”優生思想”に辿り着きます。

ヒットラーは
『ドイツ人は最も優秀』という考えを広めるために
『ダメなユダヤ人』を排除しました。

だけど実は
そのユダヤ人大量虐殺の前にドイツ国内では

『価値ある者を大事にする』ために
『価値のない者を減らす』つまり
知的障害者の大量殺戮が行われていました。
 

『価値のある者を増やす』の
後ろにある

『価値のない者は不必要』
という思想が

大量の弱者を犠牲にしました。

もちろん当時は戦時中であり

それが正義として
どの国でも正当化していた時代です。

だからこの話を出したのは
ドイツは最悪だということじゃなくて
酷い戦争はもう二度としないとか
そういうことじゃなくて
 
 

実はこの危ない考え方は
今でも世界のどこにでも存在していて
 

 
僕たちの身の回りでも
常に起こっていることかもしれません。

それが戦争から
スポーツに変わっただけと
言えるかもしれません。

・・・・ 
 

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